ディズニーのアニメで、
「シュガー・ラッシュ」という映画があります。
この物語は、
ゲームの世界のキャラクターを
擬人化(ぎじんか)したような物語で、
ゲームセンターのモニター画面の中で
動いているキャラクターが、
いかにもその時間、
働いて生活しているような
構成(こうせい)になっています。
その中でヒロインとして登場するのが、
少女ヴァネロペです。
ヴァネロペは、
お菓子の世界に存在(そんざい)し、
その世界では少女たちがカーレースで
勝敗を競(きそ)っている。
簡単(かんたん)に言えば、
ゲームセンターのカーレースの
ゲームの世界に生きているという
設定(せってい)です。
けれど、ヴァネロペには
不具合(ふぐあい)がある!!
コンピューターでよく言う
「バグ」
ということでしょうか・・。
ヴァネロペは、
そのゲームの世界の不具合であり、
マイナスの存在だと
扱(あつか)われている。
そのために、ヴァネロペは、
他の人たちから「のけ者」にされ、
カーレースに出ることもできない。
みんなから、蔑(さげす)まれ
嫌(きら)われる存在として生きている。
ある時、
別のゲームの世界から
迷(まよ)い込んだラルフは、
お菓子の世界で
そのヴァネロペと出会う。
そして、ラルフが持ってきた
メダルによって、
ヴァネロペは
カーレースの出場の権利(けんり)を得る。
しかし、お菓子の世界の王は、
なぜだか、
執拗(しつよう)にヴァネロペの
レースへの出場を阻(はば)もうとする。
ヴァネロペには「不具合」、
バグがあり、
彼女がカーレースに出場すれは、
このお菓子の世界自体(じたい)がおかしくなり、
壊(こわ)れてしまい、
このカーレースのゲーム機自体が
廃棄(はいき)され、
お菓子の世界の住民、
そしてヴァネロペ自体も不幸になる!
というのが表向(おもてむ)きの理由です。
けれど、実は、別の理由があった。
ヴァネロペは
王の妨害(ぼうがい)によって、
窮地(きゅうち)に追い込まれるが、
決して屈(くっ)しない勇気と行動、
そしてラルフの助けを得(え)て、
お菓子の国のカーレースに出場する。
ここでも、ヴァネロペを
ゴールにたどり着かせないように、
王の容赦(ようしゃ)ない妨害が続く。
それは、なぜなのか???
実は、
「王」というのは偽(いつわ)りで、
その王の正体(しょうたい)は、
お菓子の国のゲームの世界を
乗っ取った、
悪(あ)しき「ウイルス」
だからです。
この「ウイルス」である
偽りの王によって、
お菓子の国の世界は支配(しはい)され、
そのことによって
ヴァネロペは不具合となり、
この世界から
排除(はいじょ)された存在になっている。
ヴァネロペは、
実(じつ)は、
このお菓子の世界を
元の世界に復活(ふっかつ)される
重要な存在であり、
ヴァネロペがゴールした時、
この世界を復活させる
「何かが起こる!!」
ということです。
だから、ウイルスである「王」は、
ヴァネロペのゴールを阻止(そし)しようとしている。
しかし、
ヴァネロペとラルフの活躍(かつやく)により、
ウイルスである王は敗れ、消えていく。
そして、ヴァネロペは、
とうとうゴールにたどり着く!!
その時、
いままでウイルスである
王に支配されていた
お菓子の国のゲームの世界に、
劇的(げきてき)な変化がもたらされる。
ヴァネロペ自身も
劇的に変化し、
「女王」の姿(すがた)をあらわす。
実は、ヴァネロペは、
お菓子の国を統治(とうじ)する女王であった!!!
そして、ウイルスによって
記憶(きおく)を消されていた住民たちも、
記憶を取り戻し、
女王に深く、お詫(わ)びをする。
考えてみると、
不具合により皆から嫌(きら)われ、
のけ者にされていたヴァネロペも、
女王であるヴァネロペも同じ人物です。
ヴァネロペは、
不具合で皆(みな)から嫌われ
のけ者にされている世界で、
そのまま生きていくこともできた。
けれど、
ヴァネロペは屈(くっ)せず、
あきらめず、
希望と勇気と挑戦によって、
自分のいる世界を、
自分が女王として
堂々(どうどう)と生きていける世界に変えた。
人間も同じなのではないだろうか・・・!
仮(かり)に、
今、自分がいる環境が、
不遇(ふぐう)であり不幸だったとする。
けれどその環境(かんきょう)は、
アニメ「シュガー・ラッシュ」のように、
偽りの世界であり、
ウイルスによって支配された
環境だと考えることはできないだろうか・・・?
そう考えた時、
今、
自分が、
かかえている不遇(ふぐう)や不幸も、
仮(かり)の姿であり、
偽(いつわ)りの姿だと
考えることはできないだろうか・・・?
そして、ヴァネロペのように、
希望と勇気と挑戦によって
道を切り開き
ゴールした時、
自分の世界が、
自分が、
王者のように輝(かがや)く
環境へと変わっていくと、
とらえることができないだろうか・・・?
創価学会(そうかがっかい)が実践している
仏法(ぶっぽう)では、
『一念三千(いちねんさんぜん)』
という法則(ほうそく)を説いています。
「一念三千」とは、
一念(いちねん)、
すなわち心(こころ)の違いによって
三千の違(ちが)う世界ができあがる!
という生命の法則です。
三千の心の違いによって、
未来の世界は、
それぞれ三千の違う世界が生まれていく・・・。
自分の心によって、
世界が変わり、
自分の心に合った世界が、
そこに存在していくことになる。
ものすごく単純(たんじゅん)に考えれば、
人は三千の違う世界の中から、
自分の心で、
そのどれかの世界を選(えら)んでいる!!
と、とらえることができます。
その三千の世界の中には、
ヴァネロペのように、
自分が、のけ者にされ、
蔑(さげす)まれ嫌(きら)われている
世界もあるかもしれない。
また、
これもヴァネロペのように、
自分が女王、
あるいは王のように、
堂々と生きている世界もあるかもしれない。
一念三千の法則から考えるならば、
人は、自分がいく世界を、
自分の心によって選んでいる・・!!
と言えます。
楽観的(らっかんてき)に
ポジティプに考えれは、
人は、
未来の三千種類の世界の中から、
自分が行く世界を選ぶことができる!!
と、とらえることもできます。
それが、
生命における
『一念三千(いちねんさんぜん)の法則』です。
確かに、未来はわからない・・・。
未来には無限(むげん)の可能性がある・・・。
不幸になる可能性も、
幸せになる可能性も・・・。
それを選び、
つかむことのできる法則が、
先程(さきほど)から話している
「一念三千の法則」ですが、
この、「一念三千の法則」を
いったい?
どうやって使っていくのか・・??
どうやって、
自分の人生に生かしていくのか?
そして、この「一念三千の法則」を
どうやって、ものにし、
人生を勝利していけるのか・・・?
それが、問題です。
実は、この「一念三千の法則」を
現実に動かし、
現実に結果を出し、
現実に幸せになっていける、
究極(きゅうきょく)の力であり方法が、
創価学会(そうかがっかい)が実践している、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を
となえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰なんです。
けれど、おそらく、
だれでも思うのではないか?
と思うのが、
いくら一念三千の法則を説(と)いても、
そんなものは、
単なる
机上(きじょう)の空論(くうろん)に
すぎないのではないか!
ということです。
問題は現実だからです。
現実を変えられなければ、何の意味もない。
現実の悩みを解決できなかったら、
そんなものは、
よくある言葉の遊びでしかない。
そして、現実の夢や希望を、
かなえていけなかったら、
いったい、
一念三千の法則が、なんだというのだろうか・・・。
けれど、創価学会が実践(じっせん)している
南無妙法蓮華経を
となえる仏法の信仰(しんこう)は、
言葉の遊びではない!!
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)』は、
現実を変える、
ものすごい力(ちから)なんです。
南無妙法蓮華経は、
一念三千の法則を
現実のものとする
『秘宝(ひほう)』なんです。
幸せをつかむ究極の法則であり、
未来を幸せに変える
究極の力(ちから)が
『南無妙法蓮華経』なんです。
だから、創価学会の、
南無妙法蓮華経をとなえる
仏法(ぶっぽう)を実践していった時、
自分の世界が、環境が、
大きく変わっていく。
自分自身の境涯(きょうがい)が
大きく変わっていく。
そして、王者のように幸せを勝ち取っていける!!
昔、
アンドレイ・タルコフスキー監督の
『惑星(わくせい)ソラリス』
という映画を見ました。
その世界では、
自分が深く思い願っている存在が、
現実の姿(すがた)をして、
具現化(ぐげんか)され、
あらわれてきてしまう。
すでに自殺して亡(な)くなり、
いるはずのない妻(つま)が具現化し、
さまよい、
主人公は苦しむ。
その果(は)てに、
自分が子供のころから、
愛してやまない故郷(こきょう)、
地球の、
我(わ)が家と家族、
その土地と自然が、
惑星ソラリスから、
出現(しゅつげん)してしまう・・・。
この物語は、
SFの架空(かくう)の物語ですが、
人間の『一念(いちねん)』には、
「こころ」を、
具現化していく力(ちから)が、
あると思う。
人は、
自分の夢や希望、
願いを、
現実に、
実現してきた・・。
それは、
人間のこころには、
夢や希望を、
実現していく力が、
『ある!!』
ということです。
そして、その、
人間の『こころ』の力が、
明確(めいかく)に発揮(はっき)された時、
夢や希望が、
かなっていく・・・!!
しかし、その
「こころの力」が、
不明瞭(ふめいりょう)で、
さまざまな障害や不純物(ふじゅんぶつ)によって、
発揮されなくなってしまっている。
そのために、
さまざまな苦しみや悩みが
生(しょう)じて、
人は、
不幸に沈(しず)んでいく・・・。
そう、言えると思います。
しかし、
「こころ」における、
さまざまな障害や不純物が、
取り除(のぞ)かれたならば、
「こころ」は、
力を、存分(ぞんぶん)に発揮して、
夢や希望が、かなっていく。
それが、
「こころの力」ではないかと、
思われる。
そして、
「こころ」から、
障害や不純物を取り除き、
こころの力を、
無限大に発揮していく力が、
さきほど話した、
「南無妙法蓮華経」
です。
そして、
南無妙法蓮華経の力によって
解放(かいほう)された、
「こころの力」によって、
惑星ソラリスのように、
幸せの世界が出現してくる。
ヴァネロペのように、
貧(まず)しい姿から、
女王の姿を、あらわす。
それが、
南無妙法蓮華経であり、
南無妙法蓮華経を、となえることだと、
思います。
・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・
昔、創価学会は、
貧乏人と病人の集まりだと言われた。
その人たちが、
創価学会の
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)を
実践することによって、
どうなっていったかといえば、
貧乏人は裕福(ゆうふく)になり、
病人は健康になっていった。
そして、ことごとく
創価学会の人たちは、
幸せになり、人生を勝利していった。
それは、
アニメ「シュガー・ラッシュ」の中で、
自分が、のけ者にされ
蔑(さげす)まれている世界にいた
ヴァネロペが、
女王となり、
その世界を幸せに変えていったのに
似(に)ている。
そういう変化を、
現実のうえで可能にしてきたのが、
創価学会だとも言えます。
いまでは、
創価学会は世界192カ国に広がり、
その世界中の人たちの悩みを解決し、
夢や希望をかなえる
大きな大きな力となって、
その人たちの環境を変え、
自分を変え、
その人たちに幸せと勝利を、もたらしている。
たとえば、
道が何本にも分かれた
分岐点(ぶんきてん)があるとする。
そして、その道の先(さき)に何があるか、
すべて見えているとします。
そうしたならば、
人は、
わざわざ自分が
不幸になる道を進みはしない。
自分が行きたい道、
自分が幸せになる道、
自分が勝利していける道を
進むでしょう。
ところが、
人は人生の道の先に、
何があるか、わからない・・。
だから、
途方(とほう)にくれたり、
あきらめたり、
絶望(ぜつぼう)したりしてしまう。
そして、敗れていく人も多くいる・・・。
創価学会の
南無妙法蓮華経をとなえる
仏法(ぶっぽう)の信仰は、
いくつも分かれた道の先に、
何があるのか、
見えているのに似(に)ている。
見えていれば、
幸せになる道を進んでいける。
不幸になる道を避(さ)けることができる。
そして自分の夢や希望を
かなえて勝利していける。
そういう生き方ができるのが、
創価学会の
南無妙法蓮華経をとなえる仏法の信仰です。
もちろん、
幸せになっていくために、
さまざまな努力、
挑戦が必要なのは当(あ)たり前です。
また、
アニメ「シュガー・ラッシュ」の
ヴァネロペのように、
それを妨(さまた)げる、
さまざまな妨害(ぼうがい)があるかもしれません。
ある意味、
幸せにさせまいとする、
さまざまな勢力(せいりょく)が
自分の前に立ちはだかることも
あるかもしれません。
けれど、
ヴァネロペのように、
希望を持ち続け、
勇気と挑戦によって
立ちはだかる苦難(くなん)を、
乗り越えていったとき、
必ず幸せになっていけるのが
創価学会の信心です。
また、
創価学会の
南無妙法蓮華経の仏法を
実践していくことによって、
自分の中から自然(しぜん)に、
その「勇気」と「希望」を
湧(わ)き上がらせていくことができる!!
その、自分の中から
湧(わ)きあがってきた
勇気と希望によって、
どんな苦難(くなん)も乗り越(こ)え
勝利していけるようになっていく!!
その大元(おおもと)のエネルギーが、
創価学会の、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)は、
環境とか境遇(きょうぐう)とか、
運命とか宿命とか、
それらの軋轢(あつれき)や障害(しょうがい)の
上にある力(ちから)であり法則だと
言えます。
運命や宿命(しゅくめい)、
軋轢(あつれき)や障害の、
『上』にある力であるがゆえに、
悩みや困難(こんなん)を乗り越え、
夢や希望を、かなえていく
力(ちから)が、ある!!
ということです。
それが、『南無妙法蓮華経』であり、
『南無妙法蓮華経を、となえる』
ことだと言えます。
たとえば、
話しのよくわかる、
良い社長がいたとします。
会社内に、さまざまの問題があり、
ある社員が悩(なや)んでいる。
同僚(どうりょう)や課長や部長に話しても、
さまざまな思惑(おもわく)や
軋轢(あつれき)があって、
まったく解決しない。
けれど、その話しのよくわかる、
良い社長に話し、
訴(うった)えていったなら、
希望や要望(ようぼう)が
かなっていく可能性が高い。
今度は、ブラック企業(きぎょう)で、
社長も、頑固(がんこ)で、
話しのわからない社長だったとする。
けれど、その国の王がいて、
その王は、大変、優秀(ゆうしゅう)で、
善良(ぜんりょう)な王だったとする。
その優秀な国の王に、
問題を訴え、伝えることができたなら、
国が動き、
ブラック企業の問題が解決できる
可能性(かのうせい)もでてくる。
こんどは、国の王も、
暴君(ぼうくん)で、
どうしようもないような王だとする。
しかしその国の王の上には、
「宇宙(うちゅう)の王」がいて、
その宇宙の王は、
大変、優秀で、
ものわかりの良い、
素晴(すば)らしい王様だったとする。
宇宙の王から見れば、
地球の一国の王など、
小さな島の住人(じゅうにん)にすぎない。
だから、
その素晴らしい宇宙の王に
話しを伝え、訴えることができたなら、
宇宙の王が動き、
暴君の圧政(あっせい)を改(あらた)め、
民衆の希望や願いが、
かなっていく可能性も強くなる。
その『宇宙の王』が、
南無妙法蓮華経であり
南無妙法蓮華経の力だと、
たとえることができます。
だから、
南無妙法蓮華経をとなえることは、
願いや祈りを、
宇宙の王に伝え、訴えることになり、
宇宙の王を動かす行為(こうい)だと、
考えることができます。
宇宙の王に訴え、
宇宙の王を動かすのだから、
願いや祈りが、
かなわないわけがない!!!
宇宙の王は、
地球のちっぽけな王とは
比(くら)べものにならないほど
広大(こうだい)で無限の力を有(ゆう)していると、
考えられます。
その『宇宙の力(ちから)』を動かしたならば、
さまざまな悩みや問題も、
悠々(ゆうゆう)と解決できるのではないかと、
思われる。
それが、
『南無妙法蓮華経を、となえる』
ことだと、
たとえることができます。
ヴァネロペは、あきらめなかった。
絶対に負(ま)けなかった。
絶対に希望を捨てなかった。
それと同じように、
南無妙法蓮華経を、となえることによって、
絶対に負けない「生命力(せいめいりょく)」を
湧(わ)き上がらせていくことができる。
その「生命力」は、
強い強い「心(こころ)」、
希望の心、
幸せの心となって、
その人の人生を開花(かいか)していく。
その生命力、
強い強い心は、
悩みを解決し、
困難を乗り越えさせ、
夢や希望をかなえる
力(ちから)となっていく。
さきほど話した、
「一念三千の法則」によれば、
その強い強い心、
幸せの心によって、
世界が幸せに変わっていく。
自分にとって
希望に満(み)ちた世界に
変わっていく・・・!
それが、
創価学会の
南無妙法蓮華経をとなえる、
「仏法(ぶっぽう)」の信仰です。
それはあたかも、
アニメ「シュガー・ラッシュ」の中で、
ヴァネロペが、
虐(しいた)げられ、
のけ者にされている世界から、
自分が女王となり、
堂々(どうどう)と生きていく、
幸せと希望の世界に、
変えていったように・・・!!
・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・
2019年11月12日
こころの音202
「シュタインズ・ゲート」という
アニメがあります。
この「シュタインズ・ゲート」という物語は、
映画やドラマ、アニメなどでは
よくある、
「タイムマシン」を題材にした話しですが、
携帯電話を使って、
過去にメールを送るというのが、
斬新(ざんしん)かもしれない。
主人公の岡部は、
ひょんなことから、
過去にメールが送れる
装置(そうち)を発明する。
しかし、過去にメールを送るたびに、
過去が変わり、
そのことによって現在も大きく変わる。
その繰(く)り返しの中、
最終的には、
取り返しのつかない大変なことに
なってしまうという、物語です。
たった一通(いっつう)のメールであったとしても、
過去にメールが送れるとしたら、
ひとりの人生、
あるいは世界を、
大きく変えることになってしまう。
場合によっては、
人の生死を変えることすら
可能となってしまう。
その繰(く)り返しの中、
世界が大きく変わり、
大きな事件をもたらす結果となってしまう。
このアニメの中では、このように説明している。
ひとつの人生、
あるいはひとつの運命、
ひとつの人生軸(じんせいじく)のもとに
形成(けいせい)された世界を、
ひとつの『世界線(せかいせん)』
ととらえる。
人間の人生、世界の成り行きを、
ひとつの『世界線』のうえに成(な)り立っていると
考えるわけです。
ところが、タイムマシンを使い、
過去に行って、
Aという人を殺したとする。
そうすると、その世界は、
今まで、Aという人間が
存在する「世界線」であったものが、
Aという人間が存在しない、
別の世界線へと移動する。
「世界線」が変わるわけです。
そうすると世界の歴史や、
さまざまな人間の人生までも
変わってしまう。
そう、とらえています。
そして、そのことを
『世界線が変わる』
と表現しています。
主人公の岡部が、
過去にメールを送ることによって、
その「世界線」が変わり、
その繰り返しの中、
とんでもない事件に巻(ま)き込まれる
ということです。
やがて岡部は、
仲間とともに、
メールではなく、
人間の記憶(きおく)を
過去に送る装置(そうち)を開発する。
肉体は無理でも
記憶を過去に送ることができれば、
ほとんどタイムマシンと
同じようなことができるということです。
そのことを、このアニメでは、
「タイムリープ(時間を跳躍[ちょうやく]すること)」
と表現しています。
そして、その装置をめぐり、
岡部の幼(おさな)なじみである、
マユリが殺されてしまう。
岡部は、マユリを助けるために、
タイムリープ・マシンを使い、
過去へと戻(もど)り、
マユリを救(すく)おうとする。
マユリを逃がし、
別の場所へと逃避(とうひ)する。
しかし、なぜだか、
同じ時刻になると、
マユリは殺されてしまった。
そして、岡部は、
そのたびにタイムリープを繰り返し、
過去に戻るが、
どんな手をつかっても、
どんな場所に逃げても、
暗殺者に殺されなかったとしても、
暗殺者が現(あらわ)れなくても、
マユリは同じ時刻になると、
必ず死んでしまった。
まるで、運命に殺されるかのように・・・。
このアニメの中では、このように説明しています。
一本のロープを
天井に吊(つ)るしたとする。
一本のロープは、一見(いっけん)、
一本に見えるけれども、
実際は、細い糸が何本も何本も
重(かさ)なって、一本のロープを
形成(けいせい)している。
その一本一本の細い糸が、
『世界線』だというのです。
一本一本の細い糸は、
それぞれが独立(どくりつ)した
糸ではあるけれど、
それがまとまったロープの到達点(とうたつてん)は、
必ず、天井に吊るした
到達点である『一点』にたどり着く。
一本一本の細い糸が、それぞれ違(ちが)うように、
かりに「世界線」が違ったとしても、
最終的には、
同じロープの到達点、
「一点」にたどり着いてしまう。
すなわち、最終的な結果を
変えることは、できない!
ということです。
ゆえに、岡部が過去に戻り、
どんなにマユリを助け、
行動を変えても、
最終的な到達点である
「マユリの死」を変えることができない・・・!
このような、
どうしても避(さ)けることのできない
宿命(しゅくめい)のようなものを、
創価学会が実践する「仏法(ぶっぽう)」では、
『宿業(しゅくごう)』といいますが、
小手先(こてさき)で、どんなに手を尽(つ)くしても、
どんなにお金を使っても、
ありとあらゆる方法を駆使(くし)したとしても、
変えられないのが、
悪(あ)しき運命といえる
『宿業(しゅくごう)』です。
では、宿命とも宿業ともいえる、
「マユリの死」を、
どうやって回避(かいひ)し、
変えていくのか・・・?
このアニメでは、こう説明している。
たとえ過去に戻り、
世界線を変えたとしても、
その世界線が、
一本のロープのような
一点の結果に向かう世界線であるならば、
結果を変えることはできない・・!
宿命とも運命ともいえる、
その変えられない結果を変えるためには、
一本のロープに束(たば)ねられた世界線ではなく、
別の違うロープに束ねられた世界線に
移動するような
大きな変化をもたらさなければならない。
すなわち、別の、もう一本のロープに
飛び移(うつ)るような、
大きな、
劇的(げきてき)な変化が
必要となる。
その大きな劇的な変革(へんかく)を
成し遂(と)げないかぎり、
「マユリの死」という
結果を変えることは、できないと・・。
そして、その劇的な変化を起こすために、
この物語は
展開(てんかい)されていくわけです。
かりに、世界線という運命の糸を、
少し変えることができたとしても、
その到達点である
結果を変えることは、できない・・・。
先ほど言ったように、
このようなどうしても変えられない
悪(あ)しき宿命を、
宿業(しゅくごう)と言いますが、
この「宿業」を打ち破(やぶ)り、
変えないかぎりは、
未来は開けない。
人は、この宿業があるから、
苦しみ、敗れ、
不幸に沈(しず)んでいく・・
と言えます。
そして、その宿命を変えるためには、
世界線の集まった一本のロープから、
別の世界線のロープに飛び移るような、
劇的な変革が必要となる・・・!
実はその、
世界線の集まった、
宿業という結果を変えられない
一本のロープから、
宿業を打ち破り宿命を変えることのできる
別の世界線のロープに
飛び移るようなことを可能にする、
唯一(ゆいいつ)の方法といえるのが、
創価学会(そうかがっかい)が実践する、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)
をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰であり、
その仏法の実践活動である
創価学会の活動なんです。
南無妙法蓮華経とは、
南無妙法蓮華経という
法則(ほうそく)であり力とは、
この宿業を打ち破り変えることのできる
力(ちから)であり、
法則だと、
言えます。
創価学会の人たちは、
その
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)の仏法』
を実践しているから、
幸せになっていけるんです。
どうしても変えられなかった
宿業を打ち破り、
宿命を転換(てんかん)して、
幸せをつかんでいけるんです。
そして、そういう偉業(いぎょう)を
創価学会のひとりひとりが、
ことごとく!
やってきたのが、
創価学会の歴史です。
だから、創価学会は
発展しているのであり、
世界192カ国に広がっているんです。
別に、タイムマシンがなくても、
世界を、
平和に、幸福に、変え、
ひとりひとりの悩みを解決し、
夢や希望をかなえさせ、
最高の幸せをつかませてきたのが、
創価学会です・・・。
あえて例(たと)えるならば、
このアニメでいう、
世界線の集まった一本のロープから、
別の世界線のロープに
飛び移るような変化を、
現実の世界で実現してきたのが、
創価学会だと
言うこともできます。
また、それを可能にするのが、
創価学会が実践(じっせん)する、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。
・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・
このアニメでは、
過去を変えることによって、
未来を変えていった。
けれど、未来を変えるのだったら、
別に、
過去を変える必要はない・・。
すなわち、「今」を変えればいいわけです。
そして、その「今」を劇的に変えていく、
究極(きゅうきょく)にして最大の力が、
創価学会が実践している、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰です。
創価学会が実践している、
その「仏法(ぶっぽう)」では、
『一念三千(いちねんさんぜん)』
という法則を、
説いています。
『一念三千』とは、
心の違(ちが)いによって、
違う三千の世界ができあがる!
という生命の法則です。
どういうことかというと、
もし、本当に
「こころ」を変えることができたとしたら、
その人の世界は
変わっていく!!
ということです。
そしてその「こころ」を
本源的(ほんげんてき)に、
本当に変えていける
唯一(ゆいいつ)の力と言えるのが、
創価学会の人たちがとなえている
『南無妙法蓮華経』です。
その南無妙法蓮華経をとなえているから、
創価学会の人たちは、
心を変え、
そのことによって自分の世界を変え、
不幸から幸せへ、
絶望から希望へと、
人生と未来を変えていけるわけです。
このアニメの物語は、
架空(かくう)の物語であり、
ありえない話しです。
けれど、仏法で説く
「一念三千」の法則の、
説明に利用することは、
可能です。
創価学会の人たちが、
ご本尊(ほんぞん)に、
南無妙法蓮華経をとえなえていく時、
南無妙法蓮華経とは、
生命を、心を、
本源(ほんげん)から
劇的に変革していく力なので、
南無妙法蓮華経をとなえていくことによって、
その人の「こころ」が、
パッと変わる。
簡単に言えば、
不幸だった心が、
幸せに変わるわけです。
一念三千の法則から言えば、
こころが変わるということは、
その人の世界が変わる!
ということです。
シュタインズ・ゲートというアニメで言えば、
『世界線』が変わる!
わけです。
心が変わることによって、
いままで不幸なる世界線にいたものが、
別の、
幸せをもたらす世界線に
変わる!わけです。
かりに、
その変化が最初は目だたない、
ごくわずかの違いだったとします。
けれどそれでも、
最初にいた不幸なる世界線には、
その人はもう、いない!
と考えられます。
こころが変わったことによって、
その人の世界が変わり、
世界線が変わったと考えるわけです。
そして、その世界線が変わった世界で、
また創価学会の
南無妙法蓮華経をとなえる
信仰をやっていくことによって、
また「こころ」が変わり、
世界が変わっていく。
その時点でまた
世界線を移動し、
「世界線」が変わるわけです。
そして、その世界線が変わった世界で、
また南無妙法蓮華経をとなえていった時、
また「こころ」が変わり、
世界が変わっていく。
そしてまた世界線が変わっていく。
幸せの方向へ、
幸せの方向へ、
どんどん世界線を移動していくと、
考えることができます。
そして、その人のいる世界線は、
どんどん分岐(ぶんき)していき、
最初にいた
「不幸なる世界線」とは、
遥(はる)かにかけはなれた
『大いなる幸せの世界線』
に移動している!!と、
とらえることができます。
だから、
幸せになっていける。
勝利していける。
最初の不幸なる自分とは、
かけ離れた、
素晴らしい幸せを
つかんでいけるわけです。
そして、そういう変化を
現実の上で可能にするのが、
創価学会が実践している、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法の信仰だということです。
そして、最も重要なことは、
この、
創価学会が実践している、
『南無妙法蓮華経をとなえる仏法』
の信仰は、
宿命を変え
宿業(しゅくごう)を打ち破ることのできる、
唯一(ゆいいつ)の方法だと
いうことです。
ゆえに、
どうしても変えることのできない
宿命、宿業(しゅくごう)が
立ちふさがったとしても、
シュタインズ・ゲートの中で言う、
一本の、宿命を変えられない
世界線のロープから、
運命を変え
宿業(しゅくごう)を打ち破ることのできる、
別の世界線のロープに
飛び移るような
劇的な変革を、
もたらすことができる。
そして、宿業(しゅくごう)を打ち破り、
新(あら)たな、
最高の幸せと勝利を、
つかんでいける!!
創価学会の、
南無妙法蓮華経をとなえる
仏法の信仰が、
『宿命転換(しゅくめいてんかん)』
『人間革命』を、
可能にするわけです。
それはあたかも・・、
アニメ・シュタインズ・ゲートの中で、
主人公たちが、
マユリを死から救うために、
世界線を大きく変える、
劇的な変革を、
もたらしていったように・・・。
・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・
アニメがあります。
この「シュタインズ・ゲート」という物語は、
映画やドラマ、アニメなどでは
よくある、
「タイムマシン」を題材にした話しですが、
携帯電話を使って、
過去にメールを送るというのが、
斬新(ざんしん)かもしれない。
主人公の岡部は、
ひょんなことから、
過去にメールが送れる
装置(そうち)を発明する。
しかし、過去にメールを送るたびに、
過去が変わり、
そのことによって現在も大きく変わる。
その繰(く)り返しの中、
最終的には、
取り返しのつかない大変なことに
なってしまうという、物語です。
たった一通(いっつう)のメールであったとしても、
過去にメールが送れるとしたら、
ひとりの人生、
あるいは世界を、
大きく変えることになってしまう。
場合によっては、
人の生死を変えることすら
可能となってしまう。
その繰(く)り返しの中、
世界が大きく変わり、
大きな事件をもたらす結果となってしまう。
このアニメの中では、このように説明している。
ひとつの人生、
あるいはひとつの運命、
ひとつの人生軸(じんせいじく)のもとに
形成(けいせい)された世界を、
ひとつの『世界線(せかいせん)』
ととらえる。
人間の人生、世界の成り行きを、
ひとつの『世界線』のうえに成(な)り立っていると
考えるわけです。
ところが、タイムマシンを使い、
過去に行って、
Aという人を殺したとする。
そうすると、その世界は、
今まで、Aという人間が
存在する「世界線」であったものが、
Aという人間が存在しない、
別の世界線へと移動する。
「世界線」が変わるわけです。
そうすると世界の歴史や、
さまざまな人間の人生までも
変わってしまう。
そう、とらえています。
そして、そのことを
『世界線が変わる』
と表現しています。
主人公の岡部が、
過去にメールを送ることによって、
その「世界線」が変わり、
その繰り返しの中、
とんでもない事件に巻(ま)き込まれる
ということです。
やがて岡部は、
仲間とともに、
メールではなく、
人間の記憶(きおく)を
過去に送る装置(そうち)を開発する。
肉体は無理でも
記憶を過去に送ることができれば、
ほとんどタイムマシンと
同じようなことができるということです。
そのことを、このアニメでは、
「タイムリープ(時間を跳躍[ちょうやく]すること)」
と表現しています。
そして、その装置をめぐり、
岡部の幼(おさな)なじみである、
マユリが殺されてしまう。
岡部は、マユリを助けるために、
タイムリープ・マシンを使い、
過去へと戻(もど)り、
マユリを救(すく)おうとする。
マユリを逃がし、
別の場所へと逃避(とうひ)する。
しかし、なぜだか、
同じ時刻になると、
マユリは殺されてしまった。
そして、岡部は、
そのたびにタイムリープを繰り返し、
過去に戻るが、
どんな手をつかっても、
どんな場所に逃げても、
暗殺者に殺されなかったとしても、
暗殺者が現(あらわ)れなくても、
マユリは同じ時刻になると、
必ず死んでしまった。
まるで、運命に殺されるかのように・・・。
このアニメの中では、このように説明しています。
一本のロープを
天井に吊(つ)るしたとする。
一本のロープは、一見(いっけん)、
一本に見えるけれども、
実際は、細い糸が何本も何本も
重(かさ)なって、一本のロープを
形成(けいせい)している。
その一本一本の細い糸が、
『世界線』だというのです。
一本一本の細い糸は、
それぞれが独立(どくりつ)した
糸ではあるけれど、
それがまとまったロープの到達点(とうたつてん)は、
必ず、天井に吊るした
到達点である『一点』にたどり着く。
一本一本の細い糸が、それぞれ違(ちが)うように、
かりに「世界線」が違ったとしても、
最終的には、
同じロープの到達点、
「一点」にたどり着いてしまう。
すなわち、最終的な結果を
変えることは、できない!
ということです。
ゆえに、岡部が過去に戻り、
どんなにマユリを助け、
行動を変えても、
最終的な到達点である
「マユリの死」を変えることができない・・・!
このような、
どうしても避(さ)けることのできない
宿命(しゅくめい)のようなものを、
創価学会が実践する「仏法(ぶっぽう)」では、
『宿業(しゅくごう)』といいますが、
小手先(こてさき)で、どんなに手を尽(つ)くしても、
どんなにお金を使っても、
ありとあらゆる方法を駆使(くし)したとしても、
変えられないのが、
悪(あ)しき運命といえる
『宿業(しゅくごう)』です。
では、宿命とも宿業ともいえる、
「マユリの死」を、
どうやって回避(かいひ)し、
変えていくのか・・・?
このアニメでは、こう説明している。
たとえ過去に戻り、
世界線を変えたとしても、
その世界線が、
一本のロープのような
一点の結果に向かう世界線であるならば、
結果を変えることはできない・・!
宿命とも運命ともいえる、
その変えられない結果を変えるためには、
一本のロープに束(たば)ねられた世界線ではなく、
別の違うロープに束ねられた世界線に
移動するような
大きな変化をもたらさなければならない。
すなわち、別の、もう一本のロープに
飛び移(うつ)るような、
大きな、
劇的(げきてき)な変化が
必要となる。
その大きな劇的な変革(へんかく)を
成し遂(と)げないかぎり、
「マユリの死」という
結果を変えることは、できないと・・。
そして、その劇的な変化を起こすために、
この物語は
展開(てんかい)されていくわけです。
かりに、世界線という運命の糸を、
少し変えることができたとしても、
その到達点である
結果を変えることは、できない・・・。
先ほど言ったように、
このようなどうしても変えられない
悪(あ)しき宿命を、
宿業(しゅくごう)と言いますが、
この「宿業」を打ち破(やぶ)り、
変えないかぎりは、
未来は開けない。
人は、この宿業があるから、
苦しみ、敗れ、
不幸に沈(しず)んでいく・・
と言えます。
そして、その宿命を変えるためには、
世界線の集まった一本のロープから、
別の世界線のロープに飛び移るような、
劇的な変革が必要となる・・・!
実はその、
世界線の集まった、
宿業という結果を変えられない
一本のロープから、
宿業を打ち破り宿命を変えることのできる
別の世界線のロープに
飛び移るようなことを可能にする、
唯一(ゆいいつ)の方法といえるのが、
創価学会(そうかがっかい)が実践する、
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)
をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰であり、
その仏法の実践活動である
創価学会の活動なんです。
南無妙法蓮華経とは、
南無妙法蓮華経という
法則(ほうそく)であり力とは、
この宿業を打ち破り変えることのできる
力(ちから)であり、
法則だと、
言えます。
創価学会の人たちは、
その
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)の仏法』
を実践しているから、
幸せになっていけるんです。
どうしても変えられなかった
宿業を打ち破り、
宿命を転換(てんかん)して、
幸せをつかんでいけるんです。
そして、そういう偉業(いぎょう)を
創価学会のひとりひとりが、
ことごとく!
やってきたのが、
創価学会の歴史です。
だから、創価学会は
発展しているのであり、
世界192カ国に広がっているんです。
別に、タイムマシンがなくても、
世界を、
平和に、幸福に、変え、
ひとりひとりの悩みを解決し、
夢や希望をかなえさせ、
最高の幸せをつかませてきたのが、
創価学会です・・・。
あえて例(たと)えるならば、
このアニメでいう、
世界線の集まった一本のロープから、
別の世界線のロープに
飛び移るような変化を、
現実の世界で実現してきたのが、
創価学会だと
言うこともできます。
また、それを可能にするのが、
創価学会が実践(じっせん)する、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。
・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・
このアニメでは、
過去を変えることによって、
未来を変えていった。
けれど、未来を変えるのだったら、
別に、
過去を変える必要はない・・。
すなわち、「今」を変えればいいわけです。
そして、その「今」を劇的に変えていく、
究極(きゅうきょく)にして最大の力が、
創価学会が実践している、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰です。
創価学会が実践している、
その「仏法(ぶっぽう)」では、
『一念三千(いちねんさんぜん)』
という法則を、
説いています。
『一念三千』とは、
心の違(ちが)いによって、
違う三千の世界ができあがる!
という生命の法則です。
どういうことかというと、
もし、本当に
「こころ」を変えることができたとしたら、
その人の世界は
変わっていく!!
ということです。
そしてその「こころ」を
本源的(ほんげんてき)に、
本当に変えていける
唯一(ゆいいつ)の力と言えるのが、
創価学会の人たちがとなえている
『南無妙法蓮華経』です。
その南無妙法蓮華経をとなえているから、
創価学会の人たちは、
心を変え、
そのことによって自分の世界を変え、
不幸から幸せへ、
絶望から希望へと、
人生と未来を変えていけるわけです。
このアニメの物語は、
架空(かくう)の物語であり、
ありえない話しです。
けれど、仏法で説く
「一念三千」の法則の、
説明に利用することは、
可能です。
創価学会の人たちが、
ご本尊(ほんぞん)に、
南無妙法蓮華経をとえなえていく時、
南無妙法蓮華経とは、
生命を、心を、
本源(ほんげん)から
劇的に変革していく力なので、
南無妙法蓮華経をとなえていくことによって、
その人の「こころ」が、
パッと変わる。
簡単に言えば、
不幸だった心が、
幸せに変わるわけです。
一念三千の法則から言えば、
こころが変わるということは、
その人の世界が変わる!
ということです。
シュタインズ・ゲートというアニメで言えば、
『世界線』が変わる!
わけです。
心が変わることによって、
いままで不幸なる世界線にいたものが、
別の、
幸せをもたらす世界線に
変わる!わけです。
かりに、
その変化が最初は目だたない、
ごくわずかの違いだったとします。
けれどそれでも、
最初にいた不幸なる世界線には、
その人はもう、いない!
と考えられます。
こころが変わったことによって、
その人の世界が変わり、
世界線が変わったと考えるわけです。
そして、その世界線が変わった世界で、
また創価学会の
南無妙法蓮華経をとなえる
信仰をやっていくことによって、
また「こころ」が変わり、
世界が変わっていく。
その時点でまた
世界線を移動し、
「世界線」が変わるわけです。
そして、その世界線が変わった世界で、
また南無妙法蓮華経をとなえていった時、
また「こころ」が変わり、
世界が変わっていく。
そしてまた世界線が変わっていく。
幸せの方向へ、
幸せの方向へ、
どんどん世界線を移動していくと、
考えることができます。
そして、その人のいる世界線は、
どんどん分岐(ぶんき)していき、
最初にいた
「不幸なる世界線」とは、
遥(はる)かにかけはなれた
『大いなる幸せの世界線』
に移動している!!と、
とらえることができます。
だから、
幸せになっていける。
勝利していける。
最初の不幸なる自分とは、
かけ離れた、
素晴らしい幸せを
つかんでいけるわけです。
そして、そういう変化を
現実の上で可能にするのが、
創価学会が実践している、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法の信仰だということです。
そして、最も重要なことは、
この、
創価学会が実践している、
『南無妙法蓮華経をとなえる仏法』
の信仰は、
宿命を変え
宿業(しゅくごう)を打ち破ることのできる、
唯一(ゆいいつ)の方法だと
いうことです。
ゆえに、
どうしても変えることのできない
宿命、宿業(しゅくごう)が
立ちふさがったとしても、
シュタインズ・ゲートの中で言う、
一本の、宿命を変えられない
世界線のロープから、
運命を変え
宿業(しゅくごう)を打ち破ることのできる、
別の世界線のロープに
飛び移るような
劇的な変革を、
もたらすことができる。
そして、宿業(しゅくごう)を打ち破り、
新(あら)たな、
最高の幸せと勝利を、
つかんでいける!!
創価学会の、
南無妙法蓮華経をとなえる
仏法の信仰が、
『宿命転換(しゅくめいてんかん)』
『人間革命』を、
可能にするわけです。
それはあたかも・・、
アニメ・シュタインズ・ゲートの中で、
主人公たちが、
マユリを死から救うために、
世界線を大きく変える、
劇的な変革を、
もたらしていったように・・・。
・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・
2016年10月02日
こころの音201
先日から話していますが、
漫画界の巨匠(きょしょう)、
手塚治虫氏の作品で、
「ブッダ」というマンガがあります。
その中で、親を殺した、
悪名高いアジャセ王が登場する。
親を殺した後、
アジャセ王の頭に腫れ物(はれもの)ができ、
その腫れ物はどんどん大きくなり、
アジャセ王は苦しむ。
治(なお)すための治療(ちりょう)方法も見つからず、
医者も途方(とほう)にくれるなか、
ブッダは、
「ためしてみる!」
と言い、
ブッダ独特(どくとく)の治療を始める。
そしてその治療を一日12時間、
三年間も続けた。
そしてブッダの治療は功(こう)を奏(そう)し、
アジャセ王の病気は
回復(かいふく)に向かう。
そんな中、
ブッダを嫌(きら)い
憎んできたはずのアジャセ王が、
ブッダに向かって、
感謝のまなざしで
「ニコッ」
と微笑(ほほえ)む。
ブッダは喜ぶ!!
「王がはじめてほほえまれた!」
「かいがあった・・」
「あの微笑みは・・・
まるで・・・・・
神のようだった!!」
「・・・、
神・・・・
神だって!?」
「なんたることだ!?
神・・・・・」
「わかったぞ!
そうだ!
わかったぞ~~っ!」
「人間の中にこそ・・・
神がいる・・・
神が宿(やど)っているんだ!!!」
ブッダは喜びのあまり、
走りつづけ、さけびつづけた!
「私はアジャセ王の微笑みに
神のような美しさを見つけました!!」
「修行僧(しゅぎょうそう)でもない、
聖者(せいじゃ)でもない、
ふつうの人間です!!」
「神というのは
だれの心にも宿っているのですな!?
だれでも神になれるのですね!?
そうでしょう?」
「私はいままで、
きびしい修行をして聖者になることを、
弟子たちに教えてきました。」
「そうじゃない!
そうじゃないんだ!!
聖者どころか、
神には・・・
だれでもなれるんだ!!!」
マンガとはいえ、
鋭(するど)いと思います。
神というと大げさかもしれないけれど、
アジャセ王の微笑みに
神を見たと言っているので、
その「神」というのは
大げさな超人的(ちょうじんてき)なものではなく、
人間性に直結(ちょっけつ)するもの、
より人間らしいもの、
人間性の究極(きゅうきょく)、
人間の中にある
「大いなる尊厳(そんげん)」
のようなものなんだと思う。
その「大いなる尊厳」
「人間性の究極」のようなものが、
すべての人の中に、
そなわっている・・・!!!
そのようなことを
言いたかったのではないか?
と思う。
そしてその、神のような生命は、
実は、
すべての人の中に
そなわっている!!
実は、ここに、
仏法(ぶっぽう)の
優(すぐ)れた思想と哲学(てつがく)がある。
神のような生命というと、
わかりづらいかもしれませんが、
幸せをもたらす生命、
幸せをもたらす無限の力(ちから)と考えると、
わかりやすいかもしれない。
幸せをもたらす生命、
幸せをもたらす無限の力は、
元々(もともと)、
すべての人の中に、そなわっている!
その元々そなわっている無限の力を、
引き出せるのが、
『仏法(ぶっぽう)』だということです。
ここに重要なポイントがあります・・!
すなわち、幸せをもたらす無限の力は、
自分の外にあるものではない。
「自分の中にある!!!」
このように、
幸せを自分の外に求めるのではなく、
自分の中に求める生き方を、
『内道(ないどう)』
といいます。
「内(うち)」に幸せを求める「道」
ということです。
それに対して、
自分の外に幸せを求めることを
『外道(げどう)』
といいます。
地位や権力(けんりょく)、
お金や世間の評判(ひょうばん)など、
自分の外にあるものによって
幸せになろうとする生き方が、
「外道」の生き方だと言えます。
環境がこうだから幸せになれない。
あの人がこうだから幸せになれない・・・と、
幸せになれない理由を、
自分の外に並(なら)べ上げたりする生き方も、
『外道(げどう)』の考え方であり
生き方だと言えます。
そして、「外道」の典型(てんけい)と言える宗教が、
実は「キリスト教」です。
キリスト教は、神という、
自分とは、かけ離れた存在に、
幸せを祈ります。
自分には幸せになる力(ちから)がないから、
神におすがりするということです。
自分には幸せになる力(ちから)がないから、
自分とは、かけ離(はな)れた存在である神様に、
ひたすら、
おすがりして、ほどこしてもらう・・。
そういう意味合いが強くなっていきます。
けれど、ここには、
はっきり言って希望はありません。
神をあがめても、あがめても、
自分と神との距離は
永遠に縮(ちぢ)まることはなく、
神をあがめれば、あがめるほど、
逆に人間との距離がどんどん離れていく。
人間は、どんどん卑小(ひしょう)になり、
みじめな存在になっていく。
そして精神的には、
自分という存在(そんざい)が、
神の奴隷(どれい)のようになってしまいます。
この絶望(ぜつぼう)のドグマから
解放(かいほう)されることは永遠になく、
人間は救われない生き物だということに
なっていきます。
ここにキリスト教の限界(げんかい)があり、
キリスト教に疑問(ぎもん)をいだき、
キリスト教から離(はな)れていく人も
多いと思います・・。
また、キリスト教でなくても、
現代の日本の宗教、
葬式(そうしき)仏教や神社信仰、
観光宗教なども、
単(たん)なる「外道の宗教」でしかないと言っても、
おかしくないと思います。
正月などに、「パンパン」と手を合わせて、
棚(たな)からぼた餅(もち)のようなことを
祈る・・。
それこそ、
自分の外にあるものによって幸せを求める
典型(てんけい)だと思います。
葬式仏教などでは、
葬式で坊(ぼう)さんに高いお金を払って
お経(きょう)をあげてもらう。
それで亡くなった方が
成仏(じょうぶつ)するんだったら、
こんな簡単なことはないけれど、
そんなことはありません。
大切なことを、
人におまかせして祈ってもらう。
考えてみたら、おかしなことです。
一番大切な幸せを、
なにか外から降(ふ)ってわいてくるように、
神頼(かみだの)みしてみたところで、
それで幸せになれるとは考えられません。
それどころか、
葬式仏教や神社信仰、
観光宗教それ自体(じたい)が、
実際、デタラメな間違(まち)った宗教であるために、
それにおすがりして祈るということは、
間違ったもの、デタラメなものに、
おすがりすることになり、
その人を不幸にしてしまう・・。
どういうことかというと、
間違ったデタラメな宗教に祈るということは、
間違ったデタラメの宗教に
自分の生命と人生を
ささげることになります。
間違ったデタラメの宗教に
人生と生命をささげたならば、
当然(とうぜん)、自分の生命と人生は、
デタラメで間違ったものになっていく。
自分の生命と人生が、
間違ったデタラメなものになっていったならば、
その結果として、
さまざまな形で
不幸がもたらされてしまう!
ということです。
不幸の根源(こんげん)には、
葬式仏教や神社信仰、
観光宗教など、
それらの間違った宗教がある!
ということです。
手塚治虫のマンガ「ブッダ」の中で、
ブッダは言った。
「人間の中にこそ・・・
神がいる・・・」
「神というのは、だれの心にも宿っている!」
「神には・・・
だれでもなれるんだ!!!」
神というと、やはり少し大げさで、
取っ付(とっつ)きづらい感じがしますが、
「神」という言葉を、
「幸せ」「幸せをつかむ無限の力」
に置き換(おきか)えると、
わかりやすいと思う。
「人間の中にこそ・・・
幸せをつかむ無限の力がある・・・」
「幸せをつかむ無限の力は
だれの心にも宿っている!」
「幸せには・・・
だれでもなれるんだ!!!」
そう言い換(か)えると、
わかりやすいと思います。
そして、その通り、
『幸せには、だれでもなれる!!』
その力が、人間の中には、
元々(もともと)、そなわっている。
問題は、その幸せになる力を、
引き出せるか、
出せないかにかかっている!
ということです。
では、その幸せになるための無限の力を、
どうやって引き出すのか・・・?
実は、ここに仏法(ぶっぽう)の命題があり、
その究極のメッセージを伝えたのが
「ブッダ」すなわち「釈尊(しゃくそん)」
だと言うこともできます。
そして、その釈尊の究極のメッセージを、
唯一(ゆいいつ)正しく汲(く)み取り
理解し、広めたのが、
日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)です。
その日蓮大聖人が発見し広めた、
釈尊の究極のメッセージとは何か・・・?
実はそれが、
「南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)」
なんです。
そしてその「南無妙法蓮華経」が、
人間の中に元々そなわっている、
幸せになる無限の力を引き出す、
究極の力であり
法則(ほうそく)だと言えます。
だから南無妙法蓮華経とは、
人間の中に元々そなわってる、
幸せになるための無限の力を引き出す
『秘宝(ひほう)』
だと言えます。
幸せになるためにロックを解除(かいじょ)する、
パスワードだと考えると、
わかりやすいと思います。
そして、その人間の中に元々そなわってる、
幸せになるための無限の力を引き出す方法が、
『南無妙法蓮華経をとなえる!!』
ということです。
だから、南無妙法蓮華経をとなえていった時、
自分の中から幸せになるための
無限の力を引き出すことができ、
そのことによって、
悩みを解決できたり、
困難(こんなん)を乗り越えることができたり、
夢や希望をかなえていくことが
できたりするわけです。
そしてそれが、
創価学会(そうかがっかい)が実践している、
ご本尊に南無妙法蓮華経をとなえる
という仏法の信仰です。
また、
仏法の神髄(しんずい)である
『南無妙法蓮華経』を
唯一(ゆいいつ)正しく把握(はあく)し、
その南無妙法蓮華経の仏法を
正しく実践(じっせん)しているのが、
『創価学会』だということもできます。
それゆえに、
創価学会は世界192カ国に広がり、
世界中の人の悩みを解決し、
夢や希望をかなえさせ、
その人たちに幸せと勝利をもたらしている・・・!
そう言えると思います。
・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・
手塚治虫のマンガ「ブッダ」の中で、
ブッダは言った。
「神というのは、だれの心にも宿っているのですな!
だれでも神になれるのですね!」
「神には・・・
だれでもなれるんだ!!!」
それは、人間性の勝利を
意味していると思います。
人間の中にある尊厳(そんげん)の勝利!
人間という生命の勝利!!
その人間の勝利の凱歌(がいか)である叫(さけ)びが、
マンガ・ブッダの言葉だと思う。
そして、その人間の中にある
尊厳の勝利、
人間の中にある生命の勝利は、
人間を開花させる
具体的なエネルギーとなっていく。
すなわち、
人間の中の尊厳の力、
生命の力が、
悩みや問題を解決する力となり
エネルギーとなっていく。
また、人間の中にある尊厳の力、
生命の力は、
夢や希望をかなえる
大きな大きなエネルキーとなっていく。
そして現実に、
悩みや問題を解決でき、
夢や希望をかなえていくことができる。
なぜなら、
幸せになるための無限の力は、
「自分の中にある!!!」
からです。
そして、自分の中にある
幸せの力に目覚(めざ)め、
その力を引き出していったならば、
その人は当然、
幸せになり、
勝利していく。
それが、創価学会が実践している、
南無妙法蓮華経の
仏法(ぶっぽう)の法則であり、
その幸せの法則通りに実践しているから、
創価学会の人たちは
幸せになっていけるわけです。
幸せには、だれでもなれる・・!
幸せになるための無限の力は、
人間の中にある!!
マンガ・ブッダの中で、
ブッダがそのことを発見し、
大地を走り、
大きな大きな歓喜(かんき)を味わったように、
その「幸せになるための無限の力」である
『南無妙法蓮華経』をとなえていった時、
その人の生命は歓喜する!!
その人の生命は高揚(こうよう)する!!
その歓喜は、
生命を開花させる喜びであり、
幸せをつかむ感動であり、
勝利をもたらす
巨大なエネルギーになっていく。
そして、悩みや問題を解決し、
夢や希望を
かなえていけるようになっていく!!!
それが、ブッダ、
すなわち釈尊(しゃくそん)が伝えたかった
『南無妙法蓮華経』であり、
創価学会が実践している、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰だと
いうことです・・・。
・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・
漫画界の巨匠(きょしょう)、
手塚治虫氏の作品で、
「ブッダ」というマンガがあります。
その中で、親を殺した、
悪名高いアジャセ王が登場する。
親を殺した後、
アジャセ王の頭に腫れ物(はれもの)ができ、
その腫れ物はどんどん大きくなり、
アジャセ王は苦しむ。
治(なお)すための治療(ちりょう)方法も見つからず、
医者も途方(とほう)にくれるなか、
ブッダは、
「ためしてみる!」
と言い、
ブッダ独特(どくとく)の治療を始める。
そしてその治療を一日12時間、
三年間も続けた。
そしてブッダの治療は功(こう)を奏(そう)し、
アジャセ王の病気は
回復(かいふく)に向かう。
そんな中、
ブッダを嫌(きら)い
憎んできたはずのアジャセ王が、
ブッダに向かって、
感謝のまなざしで
「ニコッ」
と微笑(ほほえ)む。
ブッダは喜ぶ!!
「王がはじめてほほえまれた!」
「かいがあった・・」
「あの微笑みは・・・
まるで・・・・・
神のようだった!!」
「・・・、
神・・・・
神だって!?」
「なんたることだ!?
神・・・・・」
「わかったぞ!
そうだ!
わかったぞ~~っ!」
「人間の中にこそ・・・
神がいる・・・
神が宿(やど)っているんだ!!!」
ブッダは喜びのあまり、
走りつづけ、さけびつづけた!
「私はアジャセ王の微笑みに
神のような美しさを見つけました!!」
「修行僧(しゅぎょうそう)でもない、
聖者(せいじゃ)でもない、
ふつうの人間です!!」
「神というのは
だれの心にも宿っているのですな!?
だれでも神になれるのですね!?
そうでしょう?」
「私はいままで、
きびしい修行をして聖者になることを、
弟子たちに教えてきました。」
「そうじゃない!
そうじゃないんだ!!
聖者どころか、
神には・・・
だれでもなれるんだ!!!」
マンガとはいえ、
鋭(するど)いと思います。
神というと大げさかもしれないけれど、
アジャセ王の微笑みに
神を見たと言っているので、
その「神」というのは
大げさな超人的(ちょうじんてき)なものではなく、
人間性に直結(ちょっけつ)するもの、
より人間らしいもの、
人間性の究極(きゅうきょく)、
人間の中にある
「大いなる尊厳(そんげん)」
のようなものなんだと思う。
その「大いなる尊厳」
「人間性の究極」のようなものが、
すべての人の中に、
そなわっている・・・!!!
そのようなことを
言いたかったのではないか?
と思う。
そしてその、神のような生命は、
実は、
すべての人の中に
そなわっている!!
実は、ここに、
仏法(ぶっぽう)の
優(すぐ)れた思想と哲学(てつがく)がある。
神のような生命というと、
わかりづらいかもしれませんが、
幸せをもたらす生命、
幸せをもたらす無限の力(ちから)と考えると、
わかりやすいかもしれない。
幸せをもたらす生命、
幸せをもたらす無限の力は、
元々(もともと)、
すべての人の中に、そなわっている!
その元々そなわっている無限の力を、
引き出せるのが、
『仏法(ぶっぽう)』だということです。
ここに重要なポイントがあります・・!
すなわち、幸せをもたらす無限の力は、
自分の外にあるものではない。
「自分の中にある!!!」
このように、
幸せを自分の外に求めるのではなく、
自分の中に求める生き方を、
『内道(ないどう)』
といいます。
「内(うち)」に幸せを求める「道」
ということです。
それに対して、
自分の外に幸せを求めることを
『外道(げどう)』
といいます。
地位や権力(けんりょく)、
お金や世間の評判(ひょうばん)など、
自分の外にあるものによって
幸せになろうとする生き方が、
「外道」の生き方だと言えます。
環境がこうだから幸せになれない。
あの人がこうだから幸せになれない・・・と、
幸せになれない理由を、
自分の外に並(なら)べ上げたりする生き方も、
『外道(げどう)』の考え方であり
生き方だと言えます。
そして、「外道」の典型(てんけい)と言える宗教が、
実は「キリスト教」です。
キリスト教は、神という、
自分とは、かけ離れた存在に、
幸せを祈ります。
自分には幸せになる力(ちから)がないから、
神におすがりするということです。
自分には幸せになる力(ちから)がないから、
自分とは、かけ離(はな)れた存在である神様に、
ひたすら、
おすがりして、ほどこしてもらう・・。
そういう意味合いが強くなっていきます。
けれど、ここには、
はっきり言って希望はありません。
神をあがめても、あがめても、
自分と神との距離は
永遠に縮(ちぢ)まることはなく、
神をあがめれば、あがめるほど、
逆に人間との距離がどんどん離れていく。
人間は、どんどん卑小(ひしょう)になり、
みじめな存在になっていく。
そして精神的には、
自分という存在(そんざい)が、
神の奴隷(どれい)のようになってしまいます。
この絶望(ぜつぼう)のドグマから
解放(かいほう)されることは永遠になく、
人間は救われない生き物だということに
なっていきます。
ここにキリスト教の限界(げんかい)があり、
キリスト教に疑問(ぎもん)をいだき、
キリスト教から離(はな)れていく人も
多いと思います・・。
また、キリスト教でなくても、
現代の日本の宗教、
葬式(そうしき)仏教や神社信仰、
観光宗教なども、
単(たん)なる「外道の宗教」でしかないと言っても、
おかしくないと思います。
正月などに、「パンパン」と手を合わせて、
棚(たな)からぼた餅(もち)のようなことを
祈る・・。
それこそ、
自分の外にあるものによって幸せを求める
典型(てんけい)だと思います。
葬式仏教などでは、
葬式で坊(ぼう)さんに高いお金を払って
お経(きょう)をあげてもらう。
それで亡くなった方が
成仏(じょうぶつ)するんだったら、
こんな簡単なことはないけれど、
そんなことはありません。
大切なことを、
人におまかせして祈ってもらう。
考えてみたら、おかしなことです。
一番大切な幸せを、
なにか外から降(ふ)ってわいてくるように、
神頼(かみだの)みしてみたところで、
それで幸せになれるとは考えられません。
それどころか、
葬式仏教や神社信仰、
観光宗教それ自体(じたい)が、
実際、デタラメな間違(まち)った宗教であるために、
それにおすがりして祈るということは、
間違ったもの、デタラメなものに、
おすがりすることになり、
その人を不幸にしてしまう・・。
どういうことかというと、
間違ったデタラメな宗教に祈るということは、
間違ったデタラメの宗教に
自分の生命と人生を
ささげることになります。
間違ったデタラメの宗教に
人生と生命をささげたならば、
当然(とうぜん)、自分の生命と人生は、
デタラメで間違ったものになっていく。
自分の生命と人生が、
間違ったデタラメなものになっていったならば、
その結果として、
さまざまな形で
不幸がもたらされてしまう!
ということです。
不幸の根源(こんげん)には、
葬式仏教や神社信仰、
観光宗教など、
それらの間違った宗教がある!
ということです。
手塚治虫のマンガ「ブッダ」の中で、
ブッダは言った。
「人間の中にこそ・・・
神がいる・・・」
「神というのは、だれの心にも宿っている!」
「神には・・・
だれでもなれるんだ!!!」
神というと、やはり少し大げさで、
取っ付(とっつ)きづらい感じがしますが、
「神」という言葉を、
「幸せ」「幸せをつかむ無限の力」
に置き換(おきか)えると、
わかりやすいと思う。
「人間の中にこそ・・・
幸せをつかむ無限の力がある・・・」
「幸せをつかむ無限の力は
だれの心にも宿っている!」
「幸せには・・・
だれでもなれるんだ!!!」
そう言い換(か)えると、
わかりやすいと思います。
そして、その通り、
『幸せには、だれでもなれる!!』
その力が、人間の中には、
元々(もともと)、そなわっている。
問題は、その幸せになる力を、
引き出せるか、
出せないかにかかっている!
ということです。
では、その幸せになるための無限の力を、
どうやって引き出すのか・・・?
実は、ここに仏法(ぶっぽう)の命題があり、
その究極のメッセージを伝えたのが
「ブッダ」すなわち「釈尊(しゃくそん)」
だと言うこともできます。
そして、その釈尊の究極のメッセージを、
唯一(ゆいいつ)正しく汲(く)み取り
理解し、広めたのが、
日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)です。
その日蓮大聖人が発見し広めた、
釈尊の究極のメッセージとは何か・・・?
実はそれが、
「南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)」
なんです。
そしてその「南無妙法蓮華経」が、
人間の中に元々そなわっている、
幸せになる無限の力を引き出す、
究極の力であり
法則(ほうそく)だと言えます。
だから南無妙法蓮華経とは、
人間の中に元々そなわってる、
幸せになるための無限の力を引き出す
『秘宝(ひほう)』
だと言えます。
幸せになるためにロックを解除(かいじょ)する、
パスワードだと考えると、
わかりやすいと思います。
そして、その人間の中に元々そなわってる、
幸せになるための無限の力を引き出す方法が、
『南無妙法蓮華経をとなえる!!』
ということです。
だから、南無妙法蓮華経をとなえていった時、
自分の中から幸せになるための
無限の力を引き出すことができ、
そのことによって、
悩みを解決できたり、
困難(こんなん)を乗り越えることができたり、
夢や希望をかなえていくことが
できたりするわけです。
そしてそれが、
創価学会(そうかがっかい)が実践している、
ご本尊に南無妙法蓮華経をとなえる
という仏法の信仰です。
また、
仏法の神髄(しんずい)である
『南無妙法蓮華経』を
唯一(ゆいいつ)正しく把握(はあく)し、
その南無妙法蓮華経の仏法を
正しく実践(じっせん)しているのが、
『創価学会』だということもできます。
それゆえに、
創価学会は世界192カ国に広がり、
世界中の人の悩みを解決し、
夢や希望をかなえさせ、
その人たちに幸せと勝利をもたらしている・・・!
そう言えると思います。
・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・
手塚治虫のマンガ「ブッダ」の中で、
ブッダは言った。
「神というのは、だれの心にも宿っているのですな!
だれでも神になれるのですね!」
「神には・・・
だれでもなれるんだ!!!」
それは、人間性の勝利を
意味していると思います。
人間の中にある尊厳(そんげん)の勝利!
人間という生命の勝利!!
その人間の勝利の凱歌(がいか)である叫(さけ)びが、
マンガ・ブッダの言葉だと思う。
そして、その人間の中にある
尊厳の勝利、
人間の中にある生命の勝利は、
人間を開花させる
具体的なエネルギーとなっていく。
すなわち、
人間の中の尊厳の力、
生命の力が、
悩みや問題を解決する力となり
エネルギーとなっていく。
また、人間の中にある尊厳の力、
生命の力は、
夢や希望をかなえる
大きな大きなエネルキーとなっていく。
そして現実に、
悩みや問題を解決でき、
夢や希望をかなえていくことができる。
なぜなら、
幸せになるための無限の力は、
「自分の中にある!!!」
からです。
そして、自分の中にある
幸せの力に目覚(めざ)め、
その力を引き出していったならば、
その人は当然、
幸せになり、
勝利していく。
それが、創価学会が実践している、
南無妙法蓮華経の
仏法(ぶっぽう)の法則であり、
その幸せの法則通りに実践しているから、
創価学会の人たちは
幸せになっていけるわけです。
幸せには、だれでもなれる・・!
幸せになるための無限の力は、
人間の中にある!!
マンガ・ブッダの中で、
ブッダがそのことを発見し、
大地を走り、
大きな大きな歓喜(かんき)を味わったように、
その「幸せになるための無限の力」である
『南無妙法蓮華経』をとなえていった時、
その人の生命は歓喜する!!
その人の生命は高揚(こうよう)する!!
その歓喜は、
生命を開花させる喜びであり、
幸せをつかむ感動であり、
勝利をもたらす
巨大なエネルギーになっていく。
そして、悩みや問題を解決し、
夢や希望を
かなえていけるようになっていく!!!
それが、ブッダ、
すなわち釈尊(しゃくそん)が伝えたかった
『南無妙法蓮華経』であり、
創価学会が実践している、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰だと
いうことです・・・。
・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・