昔、
池田先生(創価学会インターナショナル会長)が
結婚してからしばらくの間、
よく奥さんと
話していたそうです。
「団地(だんち)に住みたいな。
コンパクトで便利(べんり)じゃないか。」
「すべて、機能的(きのうてき)に
つくられていますね。」
「少し狭(せま)いかもしれないが、
部屋の数は、そんなになくても、
ご本尊様(ほんぞんさま)さえ、
きちんとご安置(あんち)して、
荘厳(そうごん)できればいいんだから。」
「そうですね。
ご本尊様には、
一切(いっさい)が、
含(ふく)まれていますからね。」
※ちなみに「ご本尊」とは、
創価学会(そうかがっかい)の人たちが
祈る対象としている本尊(ほんぞん)で、
仏(ほとけ)の生命そのものを、あらわしたものであり、
それと同時に、自分の生命そのものを
あらわしたものでもあり、
その必ず幸せになっていける
仏(ほとけ)の生命が、
自分自身の中にあることをあらわしたものが、
「ご本尊(ほんぞん)」です。
奥さんは、言っていた。
『ご本尊様には
一切(いっさい)が
含(ふく)まれていますからね。』
どういうことだろうか・・・?
ご本尊には、一切が含(ふく)まれている。
その一切(いっさい)とは、なんだろうか・・・?
それはおそらく、
人間が幸せになっていくための、
あらゆるもの、
あらゆる宝(たから)、
あらゆる希望と力(ちから)が、
含まれていると、いうことだと思う。
それは、譬(たと)えるなら、
打ち出の小槌(こづち)のようなものだと思う。
打ち出(うちで)の小槌を振(ふ)ると、
宝が、どんどん出てくる。
無限に出てくる。
どんなに辛(つら)い時でも、
どんなに苦しい時でも、
どんなに悲しい時でも、
打ち出の小槌(こづち)を振れば、
幸せの宝が、どんどん出てくる。
当然です。
それが、打ち出の小槌だからです。
それと同じように、
生命における、打ち出の小槌が、
『ご本尊』なんだと思う。
だから、その、
打ち出の小槌(こづち)を、
振ればいい・・!
そして、その、
『打ち出の小槌を振る』ということが、
ご本尊に、
『南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)を、
となえる!』
ということに、
あたるんだと思う。
打ち出の小槌を振れば、
無限に宝がででくる。
だから、
「生命の打ち出の小槌」である、『ご本尊』に、
南無妙法蓮華経をとなえて祈る時、
幸せも、希望も、
勇気も、知恵も、
自分の中から、
生命の宝が、
無限に湧(わ)き上がってくる。
幸せを呼ぶ運も、
悩みを解決する力(ちから)も、
生命を蘇生(そせい)させるエネルギーも、
人々を愛していくエネルギーも、
平和と人間性も、
より良い人間になっていくためのパワーも、
夢をつかむ力も、
未来を生み出す力も、
より良い世界を生み出していく
すべてのエネルギーが、
自分の中から、
湧き上がってくる。
なぜなら、
ご本尊には、
すべてが!
含まれているから!
ご本尊は、
生命における、
『打ち出の小槌』だから・・!
実は、そういう、
自分の中にある、
生命のあらゆる、無限の宝が、
『ご本尊(ほんぞん)』
なんだと思う。
・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・
ゆえに、
なにも恐(おそ)れることはない・・。
なにも落ち込むこともない・・。
なにも悲観(ひかん)する必要はない・・。
なぜなら、ご本尊に
南無妙法蓮華経を、となえていったなら、
自分の中から、
幸せや希望、
勇気や知恵が、
無限に引き出され、
湧(わ)き上がり、
そして、
悩みや問題を解決することができ、
夢や希望も、
かなえていくことができる。
『ご本尊には、一切が含(ふく)まれている。』
ご本尊には、すべてが
含まれているがゆえに、
べつに難(むずか)しいことは考えなくても、
自分が思ったとおり、
自分が祈りたいことを、
素直(すなお)に祈っていくことによって、
最高の解決策(かいけつさく)が見いだされ、
自分にとって、
最高の方向に
進んでいくことができる。
それが、『ご本尊』だと思う。
だから、創価学会のご本尊は、
世界中のどんな境遇(きょうぐう)の、
どんな状況(じょうきょう)の人であっても、
ご本尊に、
南無妙法蓮華経をとなえていくことによって、
必ず幸せにしていくことが、できる!!
すべての一人一人に対応(たいおう)し、
あらゆる人の悩みに
完全にマッチして、
一人一人を蘇生(そせい)させ、
幸せにしきっていくことができる。
ゆえに、池田先生夫人が言うように、
『ご本尊には、一切が含(ふく)まれている。』
それが、
あらゆる人の悩みの解決が可能な、
あらゆる人の夢や希望を、
かなえていける力(ちから)のある、
創価学会の
『ご本尊』であり、
創価学会(そうかがっかい)の、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰なんだと思う・・!
・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・
2015年06月03日
2015年05月14日
こころの音190
以前、
ブログのコメントで、
「創価学会(そうかがっかい)に入らなくても、
南無妙法蓮華経をとなえていれば、
大丈夫(だいじょうぶ)ですか・・?」
という質問をされたことがあります。
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)は、
スゴイので、
となえないより、
となえたほうが、
全然、良いけれど、
かといって、
それで大丈夫かといったら、
そういうことでもありません。
南無妙法蓮華経の本当のスゴサは、
人生を、自分を、
世界や生命を、
幸せに変革していく「力(ちから)」に
あると思います。
宿命(しゅくめい)を転換(てんかん)していく力。
世界を変えていく力(ちから)が、
『南無妙法蓮華経』だと
思います。
けれど、
ほんとうに悩みや問題を解決し、
夢や希望をかなえていくには、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)に
直結(ちょっけつ)した実践活動が、
必要になっていきます。
いくら、南無妙法蓮華経をとなえても、
現実に南無妙法蓮華経の仏法に
直結した実践(じっせん)の行動がないと、
自分の宿命は、
変革され転換されていきません。
ようするに、
南無妙法蓮華経はスゴイけれど、
南無妙法蓮華経をとなえるだけでは、
自分の悩みや問題は、
解決していかないということです。
南無妙法蓮華経を真剣にとなえ、
仏法の実践活動を、
現実にしていった時、
その二つが合(あ)い重(かさ)なり、
幸せが、かけ算されるように、
さまざまな悩みや問題が解決し、
自分の宿命が転換され、
境涯(きょうがい)が変わり、
夢や希望も、
かなえていけるようになっていくんです。
南無妙法蓮華経をとなえることと、
仏法の実践活動の
両輪(りょうりん)があってこそ、
夢や希望がかない、
幸せになっていけるんです。
・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・
南無妙法蓮華経は、
蘇生(そせい)の力だし、
南無妙法蓮華経をとなえることは、
スゴイことなので、
病気などの時は、
真剣に南無妙法蓮華経をとなえていくだけでも、
病気が良くなり、
治(なお)ったりすることも
多々(たた)ありますが、
やはり、
南無妙法蓮華経をとなえるだけでは、
不十分だと言えると思います。
どうしても、
南無妙法蓮華経の仏法に直結した、
真実の実践活動が
必要となっていきます。
その仏法(ぶっぽう)に直結した、
実践活動ができる場所が、
『創価学会』なんです。
創価学会は、
南無妙法蓮華経の仏法を、
純粋(じゅんすい)に、
一点の狂(くる)いもなく、
真に正しく実践している、
唯一(ゆいいつ)の団体だと
言えます。
だから、
本当に幸せになりたいのならば、
悩みを解決したいのならば、
また、夢や希望を
かなえていきたいのならば、
どうしても、
創価学会という存在が
必要になっていきます。
南無妙法蓮華経を、となえていくだけでも、
時として、その人を
窮地(きゅうち)から救い、
助けてくれるけれども、
やはり、それだけでは、
本当に幸せになっていくことはできません。
自分の宿命を転換していくためには、
どうしても、
創価学会の中で
南無妙法蓮華経をとなえ、
創価学会の中で、
仏法の実践活動をしていく
必要があります。
その時、
宿命が転換され、
悩みや問題が解決でき、
やがて夢や希望も
かなえていけるようになっていくんです。
だから、創価学会とは、
『幸せを創造(そうぞう)する場所』であり、
創価学会の中で、
南無妙法蓮華経をとなえていった時、
はじめて、
南無妙法蓮華経のスゴサ、
偉大(いだい)さ、
その無限大の力を
発揮(はっき)していくことが、
可能になっていく!
と結論(けつろん)することが
できると思います・・。
・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・
ブログのコメントで、
「創価学会(そうかがっかい)に入らなくても、
南無妙法蓮華経をとなえていれば、
大丈夫(だいじょうぶ)ですか・・?」
という質問をされたことがあります。
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)は、
スゴイので、
となえないより、
となえたほうが、
全然、良いけれど、
かといって、
それで大丈夫かといったら、
そういうことでもありません。
南無妙法蓮華経の本当のスゴサは、
人生を、自分を、
世界や生命を、
幸せに変革していく「力(ちから)」に
あると思います。
宿命(しゅくめい)を転換(てんかん)していく力。
世界を変えていく力(ちから)が、
『南無妙法蓮華経』だと
思います。
けれど、
ほんとうに悩みや問題を解決し、
夢や希望をかなえていくには、
南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)に
直結(ちょっけつ)した実践活動が、
必要になっていきます。
いくら、南無妙法蓮華経をとなえても、
現実に南無妙法蓮華経の仏法に
直結した実践(じっせん)の行動がないと、
自分の宿命は、
変革され転換されていきません。
ようするに、
南無妙法蓮華経はスゴイけれど、
南無妙法蓮華経をとなえるだけでは、
自分の悩みや問題は、
解決していかないということです。
南無妙法蓮華経を真剣にとなえ、
仏法の実践活動を、
現実にしていった時、
その二つが合(あ)い重(かさ)なり、
幸せが、かけ算されるように、
さまざまな悩みや問題が解決し、
自分の宿命が転換され、
境涯(きょうがい)が変わり、
夢や希望も、
かなえていけるようになっていくんです。
南無妙法蓮華経をとなえることと、
仏法の実践活動の
両輪(りょうりん)があってこそ、
夢や希望がかない、
幸せになっていけるんです。
・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・
南無妙法蓮華経は、
蘇生(そせい)の力だし、
南無妙法蓮華経をとなえることは、
スゴイことなので、
病気などの時は、
真剣に南無妙法蓮華経をとなえていくだけでも、
病気が良くなり、
治(なお)ったりすることも
多々(たた)ありますが、
やはり、
南無妙法蓮華経をとなえるだけでは、
不十分だと言えると思います。
どうしても、
南無妙法蓮華経の仏法に直結した、
真実の実践活動が
必要となっていきます。
その仏法(ぶっぽう)に直結した、
実践活動ができる場所が、
『創価学会』なんです。
創価学会は、
南無妙法蓮華経の仏法を、
純粋(じゅんすい)に、
一点の狂(くる)いもなく、
真に正しく実践している、
唯一(ゆいいつ)の団体だと
言えます。
だから、
本当に幸せになりたいのならば、
悩みを解決したいのならば、
また、夢や希望を
かなえていきたいのならば、
どうしても、
創価学会という存在が
必要になっていきます。
南無妙法蓮華経を、となえていくだけでも、
時として、その人を
窮地(きゅうち)から救い、
助けてくれるけれども、
やはり、それだけでは、
本当に幸せになっていくことはできません。
自分の宿命を転換していくためには、
どうしても、
創価学会の中で
南無妙法蓮華経をとなえ、
創価学会の中で、
仏法の実践活動をしていく
必要があります。
その時、
宿命が転換され、
悩みや問題が解決でき、
やがて夢や希望も
かなえていけるようになっていくんです。
だから、創価学会とは、
『幸せを創造(そうぞう)する場所』であり、
創価学会の中で、
南無妙法蓮華経をとなえていった時、
はじめて、
南無妙法蓮華経のスゴサ、
偉大(いだい)さ、
その無限大の力を
発揮(はっき)していくことが、
可能になっていく!
と結論(けつろん)することが
できると思います・・。
・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・
2015年04月28日
こころの音189
「裸の王様」の物語は、
皆さん、
知っていると思います。
裸(はだか)の王様は、
アンデルセンの童話です。
ある、おしゃれ好きな王様に、
詐欺師(さぎし)の仕立(した)て屋が
「バカには見えない布地」で
服を作ります。
自分が馬鹿者(ばかもの)だと思われたくない
家来(けらい)や王様たちは、
あるはずもない服を
称賛(しょうさん)します。
王様は、その服を着て
パレードに出かけますが、
やはり、バカだとは思われたくないので、
誰一人(だれひとり)『見えない』とは
言えません。
そんな中、
子どもが
『王様は裸だ!』
と真実を言います。
これで我(われ)に返った観衆も
一転(いってん)して、
『そうだ、王様は裸だ。』
と言い出します。
そして、ついに一人残らず、
王様は裸だと、さけぶようになります。
王さまは大弱(おおよわ)り。
王さまだってみんなの言うことが
正しいと思ったからです。
でも、
「いまさら行進パレードを
やめるわけにはいかない。」
と思ったので、
そのまま、今まで以上に
もったいぶって、
パレードを続けたという話しです。
これは、人間がよく陥(おちい)りやすい、
感情の風刺(ふうし)だと思いますが、
探(さが)せは、似(に)たようなことが
世の中には、あると思います。
たとえば、
日本にはびこっている、
さまざまな宗教・・。
それは、葬式仏教(そうしきぶっきょう)や
観光宗教、神社信仰などですが、
それらは、だれも
本当に力や効力(こうりょく)、
ご利益(ごりやく)があるとは思っていないけれど、
かといって、
だれも言わない。
表面上は、いかにも、
ご利益や効力があるように、
もてはやす。
あそこは、何々にご利益(りやく)がある。
あそこはなんとかにご利益がある
とかいっても、
現実には、
確証的(かくしょうてき)なものは、
なにひとつない・・!
だれも「王様は裸だ!」
と言わないように、
ただ、なんとなく、
あがめたて、もてそやす。
そして、
「きっといい事があるに違(ちが)いない」
とか言って、 祈ったところで、
そんなことは、まず、起らない・・。
宗教の虚構(きょこう)が
通常(つうじょう)となり、
それこそ、王様が
裸で町をねり歩くような行為(こうい)が、
まかり通ってしまう。
それが、世間一般的な宗教だと思う。
ところが、子供が、
『王様は裸だ!』
と言ったように、
唯一(ゆいいつ)、真実を言ったのが、
創価学会(そうかがっかい)の人たちです。
「それらの宗教は、間違(まちが)っている。
そんな宗教に祈ったところで、
幸せになどならない。
返(かえ)って、でたらめな宗教に
祈るということは、
自分の生命と人生に害(がい)をもたらし、
不幸になる原因(げんいん)になってしまう!」
そう、はっきりと明言(めいげん)したのが、
創価学会の人たちだと言えます。
事実、その通りです。
それらの葬式仏教や神社信仰、
観光宗教などは、
明(あき)らかに間違っているがゆえに、
その間違った宗教に祈るということは、
自分の生命と人生を、
その間違ったデタラメの宗教に、
ささげることになる。
間違ったデタラメの宗教に
自分の生命と人生をささげていけば、
当然(とうぜん)、自分の生命と人生は、
間違ったデタラメなものになっていく。
自分の生命と人生が、
間違ったデタラメなものになっていったならば、
その結果として、
さまざまな不幸が、もたらされてしまう。
だから、真剣に祈れば祈るほど、
逆(ぎゃく)に、不幸になる原因がつくられていき、
その人の人生に、
大きな害をもたらしてしまう。
それが、真実だと言えます。
不幸の根源(こんげん)には、
間違った宗教がある!ということです。
・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・
そして、それとは逆に、
間違いのない、
人々に幸せをもたらしていける、
真実の宗教が、
創価学会が実践(じっせん)している、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。
それが正しい証拠(しょうこ)として、
創価学会は、どんどん発展し、
世界192カ国に広がっている。
そして、その創価学会の
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)の
仏法(ぶっぽう)を実践した、
世界中の人たちを
現実に幸せにしている。
それは、
ひとりひとりの悩みを
解決した結果であり、
ひとりひとりの夢や希望を
実現(じつげん)していけた結果であり、
ひとりひとりが現実に
『幸せになった!』
という結果として、
創価学会は世界中に広まっている。
あたかも、それは・・、
童話(どうわ)・裸の王様で、
子供が
『王様は裸だ!』
と叫(さけ)んだあと、
みんなが、
『そうだ、王様は裸だ!』
と言い、
最後は、すべての人が
『王様は裸だ!』
と言ったように、
ひとりの勇気の声が、
まわりに広がり、
世界に広がり、
その真実の証明(しょうめい)として、
これからも、創価学会は、
広がり続けていくことでしょう・・・!
・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・
皆さん、
知っていると思います。
裸(はだか)の王様は、
アンデルセンの童話です。
ある、おしゃれ好きな王様に、
詐欺師(さぎし)の仕立(した)て屋が
「バカには見えない布地」で
服を作ります。
自分が馬鹿者(ばかもの)だと思われたくない
家来(けらい)や王様たちは、
あるはずもない服を
称賛(しょうさん)します。
王様は、その服を着て
パレードに出かけますが、
やはり、バカだとは思われたくないので、
誰一人(だれひとり)『見えない』とは
言えません。
そんな中、
子どもが
『王様は裸だ!』
と真実を言います。
これで我(われ)に返った観衆も
一転(いってん)して、
『そうだ、王様は裸だ。』
と言い出します。
そして、ついに一人残らず、
王様は裸だと、さけぶようになります。
王さまは大弱(おおよわ)り。
王さまだってみんなの言うことが
正しいと思ったからです。
でも、
「いまさら行進パレードを
やめるわけにはいかない。」
と思ったので、
そのまま、今まで以上に
もったいぶって、
パレードを続けたという話しです。
これは、人間がよく陥(おちい)りやすい、
感情の風刺(ふうし)だと思いますが、
探(さが)せは、似(に)たようなことが
世の中には、あると思います。
たとえば、
日本にはびこっている、
さまざまな宗教・・。
それは、葬式仏教(そうしきぶっきょう)や
観光宗教、神社信仰などですが、
それらは、だれも
本当に力や効力(こうりょく)、
ご利益(ごりやく)があるとは思っていないけれど、
かといって、
だれも言わない。
表面上は、いかにも、
ご利益や効力があるように、
もてはやす。
あそこは、何々にご利益(りやく)がある。
あそこはなんとかにご利益がある
とかいっても、
現実には、
確証的(かくしょうてき)なものは、
なにひとつない・・!
だれも「王様は裸だ!」
と言わないように、
ただ、なんとなく、
あがめたて、もてそやす。
そして、
「きっといい事があるに違(ちが)いない」
とか言って、 祈ったところで、
そんなことは、まず、起らない・・。
宗教の虚構(きょこう)が
通常(つうじょう)となり、
それこそ、王様が
裸で町をねり歩くような行為(こうい)が、
まかり通ってしまう。
それが、世間一般的な宗教だと思う。
ところが、子供が、
『王様は裸だ!』
と言ったように、
唯一(ゆいいつ)、真実を言ったのが、
創価学会(そうかがっかい)の人たちです。
「それらの宗教は、間違(まちが)っている。
そんな宗教に祈ったところで、
幸せになどならない。
返(かえ)って、でたらめな宗教に
祈るということは、
自分の生命と人生に害(がい)をもたらし、
不幸になる原因(げんいん)になってしまう!」
そう、はっきりと明言(めいげん)したのが、
創価学会の人たちだと言えます。
事実、その通りです。
それらの葬式仏教や神社信仰、
観光宗教などは、
明(あき)らかに間違っているがゆえに、
その間違った宗教に祈るということは、
自分の生命と人生を、
その間違ったデタラメの宗教に、
ささげることになる。
間違ったデタラメの宗教に
自分の生命と人生をささげていけば、
当然(とうぜん)、自分の生命と人生は、
間違ったデタラメなものになっていく。
自分の生命と人生が、
間違ったデタラメなものになっていったならば、
その結果として、
さまざまな不幸が、もたらされてしまう。
だから、真剣に祈れば祈るほど、
逆(ぎゃく)に、不幸になる原因がつくられていき、
その人の人生に、
大きな害をもたらしてしまう。
それが、真実だと言えます。
不幸の根源(こんげん)には、
間違った宗教がある!ということです。
・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・
そして、それとは逆に、
間違いのない、
人々に幸せをもたらしていける、
真実の宗教が、
創価学会が実践(じっせん)している、
南無妙法蓮華経をとなえる、
仏法(ぶっぽう)の信仰だということです。
それが正しい証拠(しょうこ)として、
創価学会は、どんどん発展し、
世界192カ国に広がっている。
そして、その創価学会の
南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)の
仏法(ぶっぽう)を実践した、
世界中の人たちを
現実に幸せにしている。
それは、
ひとりひとりの悩みを
解決した結果であり、
ひとりひとりの夢や希望を
実現(じつげん)していけた結果であり、
ひとりひとりが現実に
『幸せになった!』
という結果として、
創価学会は世界中に広まっている。
あたかも、それは・・、
童話(どうわ)・裸の王様で、
子供が
『王様は裸だ!』
と叫(さけ)んだあと、
みんなが、
『そうだ、王様は裸だ!』
と言い、
最後は、すべての人が
『王様は裸だ!』
と言ったように、
ひとりの勇気の声が、
まわりに広がり、
世界に広がり、
その真実の証明(しょうめい)として、
これからも、創価学会は、
広がり続けていくことでしょう・・・!
・・・・・・・・・・・・・こころ(音がないから、音を探して)・・・・・・・・・・・・・